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札幌高等裁判所 昭和41年(ラ)39号 決定

抗告人 江原ヤスエ(仮名)

主文

本件抗告を棄却する。

理由

本抗告理由の要旨は

一、抗告人は昭和二四年一一月二三日中原武と事実上の婚姻関係に入り、昭和四〇年一二月七日武が死亡するまで内縁の夫婦として共同生活を続けた。しかしてこの間に富子(昭和二六年一月二二日生)、節子(昭和二七年五月二九日生)、宗勝(昭和三〇年二月七日生)の三子が出生した。

二、武は渡辺宗宣とその妻ハルとの間の七男であり、昭和一五年一一月二九日中原カメと入夫婚姻し中原の氏を称することとなったものであるところ、昭和二三年八月五日カメが死亡したので、戸籍上の氏は中原のままであったが、その後の社会生活においては婚姻前の氏である渡辺を用いていた。抗告人は武と事実上の婚姻関係に入るに際し、同人の戸籍上の氏が中原であることを知らず、渡辺であると信じていたものであり、両人の間の子である富子が小学校六年生の頃、右の事実を知って衝撃を受けた。

三、武と抗告人とは婚姻届出の必要を痛感しながら武の職業が建設業で転々として作業場がかわり、その作業場で生活していたので、武が死亡するまで遂に婚姻届を提出することができず、三人の子供の出生届出もしないままであった。そこで抗告人は武の死亡後の昭和四一年四月ようやく三人の子の出生届出をしたが、これらの子はいずれも渡辺姓をもって就学している。

四、以上の次第で武の氏を中原から渡辺に改める機会は永久に失われ、武と抗告人との婚姻届出をすることも既に不可能となったが、抗告人とその子らは長年月にわたり渡辺姓を用いてきたし、周囲の者たちも亡武を含む抗告人らの家族を渡辺として親しんできたものである。そして抗告人母子は夫であり父である武とその旧姓渡辺とに奪うことのできない慕情と愛着を感じており、今に及んで抗告人の氏「江原」を名乗ることは耐え難く、その不利不便は甚大である。

五、抗告人の現住所○○町、武の父渡辺宗宣が明治二九年一一月から大正一〇年一〇月まで二五年間にわたり、○○尋常高等小学校に訓導兼校長として在勤した縁の地であり、教え子知人が多数存在し、今なおその徳望が偲ばれているのであって、抗告人母子は渡辺家の家族として有形無形の恩恵を蒙っている。しかるに今に及んで内縁関係の暴露に遭い、江原姓を称せざるを得ない境遇となっては抗告人母子が受ける物心両面の苦悩は計り知れないものがある。

六、もとより抗告人は三人の子のために認知の訴を提記すべく準備しているが、これにより子らが父武の氏を称することができるようになるとしても「中原」の氏たるに止まり、抗告人らは戸籍上の氏を武とともに愛称してきた渡辺に変更し晴れて渡辺を名乗り得る日の来ることを一日千秋の思いで待ち佗びている。

七、しかるに原審が本件申立を戸籍法第一〇七条第一項にいわゆる氏の変更についてのやむを得ない理由にあたらないとして却下したのは不当であるから、原審判を取り消し、本件を札幌家庭裁判所に差し戻す旨の裁判を求める。というのである。

思うに氏は旧法下におけるような「家名としての氏」ではないけれども、氏の表象するものは単なる個人ではなくして何らかの親族関係であり、氏の変更は原則として身分関係の変動に伴ってのみ生ずるものである。すなわち身分行為が伴わない場合にたやすく改氏ができるとすれば、戸籍の秩序または一般の権利義務に関する法的秩序に混乱が生ずるから、戸籍法第一〇七条は氏の変更につき「やむを得ない事由」を要するものとし、名の変更における「正当な事由」に比し呼称秩序の不変性確保に重きを置いているのである。

本件においては、亡中原武は中原カメの死亡により前婚が終了したのち復氏の届出をしたうえ抗告人との婚姻の届出をなすべきところ、これをなさず、しかも三人の子の出生届もしないままで、その旧姓である渡辺を通姓として使用してきたというのであり、亡武を含む抗告人およびその子女らの家族が渡辺姓をもって一般社会に認識されていたことはこれを窺い得るところであるけれども、三人の子女はなお未成年者であって社会的に地歩を築いたものでもなく、しかも亡武に対する認知の訴を提起するというのであれば勝訴のあかつきには父の氏を称することも予想され、また抗告人も公職その他の職業を有する者でもないことは原審における審問の結果により認め得るところであるから、現にその戸籍上の氏と通姓が異なることがその同一性を惑わし、社会生活を混乱させることになるとは到底認められない。氏の変更を許容すべき「やむを得ない事由」とは通姓に対する愛着や内縁関係の暴露を嫌うというような主観的事情を意味するのではなく、呼称秩序の不変性確保という国家的、社会的利益を犠牲にするに値いする程の高度の客観的必要性を意味すると解すべきであり、本件申立理由の如きは右の「やむを得ない事由」に当たらないものといわなければならない。

そうすると同趣旨に出た原審判は相当で、本件抗告は理由がないから、民事訴訟法第四一四条第三八四条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 杉山孝 裁判官 田中恒朗 裁判官 島田礼介)

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